今回は、消費者の購入動機、その心理の根幹について、個人の経験に基づいて考えてみたいと思います。
可処分所得用途のポートフォリオ
皆さんは、家計簿やお小遣い張の類はマメに付けてますか? 俺様は、その手の物をキチンと付けられたためしがないです。なので、自分がどんなことにお金を使っているか、使い過ぎてないか?もっとお金を掛けるべきところにケチってないか?ということを細かく把握できておらず、自ずとそれらの反省により行動パターン修正するなんてことにならないので、常に行き当たりバッタリでお小遣いを使ってます。
かっこ付けてポートフォリオなんて書きましたが、要は食費とか通信費とか交際費とか書籍代とかの、可処分所得内での割合ですよね。どう按分してお金をつかっているのか? 細かくは見えてませんが、大まかに言って自分のお小遣いの使い道を以下の2つに分けるのが個人的にはシックリ来ます。
ここで俺様が何が言いたいかって言うと、必要経費的に毎月固定で出て行く前者のお金に対しては特に感慨を持たないが、後者の出費って言うのは消費時の状況や心持ちによって全然感覚(出費時の痛み)が違ってくるよなーってことです。 自分が欲しいと思って買ったCDとか本とかは、人間って結構高額であっても喜んでお金を使うけれども、義理や付き合いの要素が含まれてくると、その出費の大きさに応じてイタタタタって気持ちになるよなぁってことです。 この使う必要のない出費をもう一段階細分化した時の、 「誰にも強制されていないのに好きで使うお金」 っていうのに注目したいんです。
その喜んでお金を使うっていう際の購買意欲というか、購入動機というか、消費者心理によーく目を凝らすと、人間が自身の生命を維持するために必要な活動とは非常に遠いところでお金を使っているような気がしませんか? 好きなアーティストのコンサートに行く、好きな画家の(レプリカとはいえ)絵を部屋に飾る、評判の良いレストランで食事をする、好きな女性に花を贈る、好きなブランドの服を買うといった消費活動を想像して言っています。 これらって、生きるか死ぬかのプリミティブなボーダーラインより、大きく遊離したというか昇華したエリアの話と捉えることが出来ると思うんですよね。 もちろん、食事をするとか服を買うとかは生きるために必要な活動だけど、より快適なサービスを受けられる環境(レストラン)でご飯を食べるとか、より美しい衣服(単純原価より遥かに高価)を身にまといたいという要素が多分に含まれていて、単に機能面を追及するだけではない部分に、好んで我々はお金を使っていると言える。
こうして整理してみると、「必要か必要でないか?」と問われれば、全然必要ではないのに、あるいは必要ではないレベルの物なのに、その不要な”モノ”や”サービス”に対して、我々は汗水たらして働いて得た貴重なお金を、”好き好んで”使っているという構図が見えてきます。 何故なんでしょうね?
自分探しの旅: 好き/嫌いに理由なし
俺様は、この理由は、自己のアイデンティティの確立と密接に関わっているんじゃないか?と捉えています。 つまり、ちょっと比喩的な表現を使うと、好きなモノやサービスを好き勝手に消費することにより、人は”自分探しの旅”を続けているんじゃないか?ということです。
学生時代数学や物理という科目が好きだったか嫌いだったか?というのには、結構明確な理由って存在すると思います。得手不得手という一番分かり易い観点や、有能な教育者との出会いのお陰で数学というものの見え方がガラリと変わったとかね。結構核心に迫る理由があるような気がする。 でも、ビートルズの音楽、ゴーギャンの絵、北野武の映画、村上春樹の小説、ベルサーチの服が好きか嫌いか?というのには、理由というものは明確に存在しないと思う。単に好きか嫌いかの直感がまず先にあって、その後にどうしてかな?と考えた時に、自分の中のこういう部分と共鳴するからなのかなという、”裏付け的な理由”が”後追い”で付いてくるんじゃなかろうか?と思う。
自分自身の音楽に関する趣向を通して考えてみる。 俺様は1972年生まれなので、ティーンエイジャーになった時に、1982年だった訳だ。 当時といえば、Duran Duran とかWham!、カルチャー・クラブとか言った80年代特有の無反省な(?)ポップ・カルチャーが音楽シーンを席巻し始めていた。イギリス発のモノが多かったのかな。周囲の影響もあり、俺様はそんな時代の空気をたっぷり吸って育った訳だ。 時代は80年代後半に入り、こちらも高校生ぐらいになるとちょっと趣向も変わってくる。 俺様自身も歳と共に(多分に漏れず)よりハードなモノを求めたのと、時代の流れが合致したのとで、アメリカ発のハードロックを良く聴いていた。ヴァン・ヘイレン、ボン・ジョビ、モトリー・クルー、ガンズ・アンド・ローゼス、ポイズンとかね。セックスとドラッグとバイオレンス!! 歌詞やファッション、メディアを通じてこぼれてくるゴシップもその手の類の話が多かった。そんな世界観もひっくるめて良く聴きました。
ただ、これらの流れとは別に古いロックも大好きで、特にローリング・ストーンズをひたすらひたすら聴くようになっていった。 ストーンズの音楽というのは、基本的には非常に渋いので、パッと聴いて惚れ込むという類のものではないと思う。だから、何故俺様がストーンズを心の中のNo.1 にしたのか?するようになるキッカケがあったのか?は基本的に良く分からない。
聴けば聴くほど味が出る楽曲が多くて、それらはシングルカットされていることの方がむしろ少ないので、アルバムをお小遣いと相談しながら買い集めて、何度も何度もそれらを聴いた。そして、何度も聴いた曲であるのに、ある時また新しい発見があったりすると、「かっこいいーー」と文字通りシビれたりもした。
でも、それって相当聴き込まないと起きない現象なので、最初に俺様の心を捉えた何かは、やはり直感によるものだったんだと思う。そして、聴き重ねるうちに、何かが俺様を捉えて、よりハマリ込んで行くというのも直感によるもので、ここにもやはり理由なんて無いんじゃないかな。上手く説明できないもの。 ストーンズは、世界で最も偉大なロックンロールバンドとして既にそこに存在していて、ストーンズが好きな高校生の俺様がやはりそこに存在するようになっただけということになるんだと思う。
80年代終盤から、ローリングストーンズは時代の背景(ジャパンマネー、法務省の入国規制の方針転換、ドーム型球場の登場)の後押しもあり、数年に1度行うワールド・ツアーの一環として日本公演を行うようになった。 俺様個人としては来日する度に1度か2度は日本公演に行っていた。特に印象深いのは、1998年のBridges to Babylon Japan Tour。
その公演ではアリーナの後ろの方で観てたんだけど、今でこそ当たり前になったとにかくバカデカいスクリーンが3分割になったり4分割にになったり(確か)で、そこにストーンズのメンバーの姿が、公演中一貫して計算されつくされたコマ割で映し出されていた。 コンサート山場、アリーナど真ん中に設けられたセンターステージに、ニョキニョキニョキっとメインステージから伸びて来た橋(Bride to Babylon)を渡ってミック・ジャガーが颯爽と歩いてきた時、俺様は我を忘れて「ミックーーー、ミックーーー!」と叫んでいた。だって、あまりにもカッコ良かったから。この時のミックの粋な立ち姿を、真似っこ出来たら、あるいは文章で描写できたら、あるいは俳優に演出として演じさせることが出来たら、俺様はサラリーマンやってないですね。だって、それだけで食っていけるもん(笑) それぐらい、ミックジャガーが放つ存在感に酔いしれた。 そのセンター特設ステージで演奏されたのは、ボブ・ディランのLike a rolling stone。 満を持してカバーしたこの曲の歌詞の中で、ミックは我々に問うわけですよ、 ”How does it feel?” と。 脇で見ていたりーだ(現妻)に、後で何度も何度もこの時の俺様の雄たけびの姿を幾度と無くからかわれ、笑われたもんである。
俺様はその時思ったものだ。 前提条件も、付帯条項も、免責事項も、制約条件も、基本契約も、瑕疵担保期間もなく、そして損得勘定とも一切関係なく、ただ単に ”好きだ” と思えるものがあるということ、そしてそれと出会えた幸運というものが、こんなに素晴らしいことなのか?と。 また、こんなにも人生に彩りを添えてくれるものなのか?と。
少なくとも当時の俺様にとっては、それがローリングストーンズであったわけだ。「神様、ストーンズをこの世にお創りになってくださってありがとう。そして、同時期にこの世に俺様を生んでくださって、ホントにありがとう。」と、とりあえず神様に心から感謝した。 このとき、喜び勇んで1万円というお金を使い、時間と労力を使って東京ドームに足を運び、俺様はこのスウィート・スポットに心からしびれるんだということで、自分の中の自分を一つ発見した。
Tags: お小遣い, ポートフォリオ, ローリング・ストーンズ, 可処分所得, 家計, 消費者心理, 自分探しの旅, 購入動機, 購買意欲
子供の頃父から、世の中のお仕事というのは3つに分類できるということを習った。 たぶん、まだ俺様が小学生だった時のことだと思う。
と。 その際に、このそれぞれを
と呼ぶことも合わせて教わった。 そして、実は人が生きていくのに必要な度合いに応じて、一次、二次、三次と分けられていて、サービス業という特別な産業は第三次産業に分類されているということも漠然と教えられた。 子供は記憶力に優れているので、ふぅ~ん、世の中そうなってるんだーと単純に鵜呑みにしたんだろうね。いつまでもこのことを覚えていたけど、これについてキチンと裏づけを取るとか、系統だって調べてみるということはしたことがなかった。
で、最近ちょっと気になり始めたのだが、絵描き、音楽家、小説家、俳優といった芸術・芸能の分野の産業(職業にしているプロ)と、プロスポーツ業(プロスポーツ選手という職業)の類はこの産業区分のどこに属するのかな?という疑問が俺様の頭をもたげている。
これらはサービス業と呼ぶのが正しいのかな?(たぶん、サービス業ってことで第三次産業に属するんでしょうね)
今回この投稿を書くに当たって、Wikipedia で調べてみたら、この俺様が知っていた産業区分は、「クラークの産業区分」って言うんですってね。「コーリン・クラークは、『経済的進歩の諸条件』(1941)において、産業を第一次産業、第二次産業、第三次産業に3分類し、経済発展につれて第一次産業から第二次産業、第三次産業へと産業がシフトしていくことを示した。」(Wikipedia より)。また、「クラークの産業分類に関しては、第三次産業に単純労働が含まれ、後進的な産業が先進的な産業と同じ扱いになっているという批判がある。(中略)雑多な産業を単一のくくりで単純化することについても批判がある。」(Wikipedia より)なんだって。
今回は産業区分の妥当性、有用性を議論したいわけではないので、 呼び方や産業区分での位置付けはともかくとして、これらの簡単に言ってしまえば娯楽のための産業って我々の生活においてどんな意味合いを持つのかな?どんな役割を果たすのかな?経済発展、もっと一市民の視座から言うと、生活の豊かさとの関係は? ホントになきゃいけないものなのかな?あるとどう良いのかな? といった、素朴なクエスチョン。 この辺りをことを、色んなことに思いを馳せながら考えてみたい。
生きるために必要な活動
上記の疑問に先導されるような形で、最近こんなことを頭の中で想像している。
文字通りプリミティブな発想をすれば、人間が生きていくためには「衣食住」が安定すればそれで良いはず。 寒さ(または暑さ)に対して体温を維持し、外傷から身を守る衣服を身に付け、生命を維持するために十分な栄養素を摂取し、外敵や寒暖から身を守りつつ寝起きできる住居があれば人間は生きていけるはずである(ちょっと乱暴だけど、生命を維持するって意味で捉えてください)。 つまり、原始生活が前提条件なら、第一次産業的な行為が生命維持のための必要十分条件となる訳だ。 映画なんて観なくてもOK だし、ロックなんてなくてもヘッチャラってわけ。
でも、まあ1億3千万人の日本人の食料や衣服を四季を通じて恒常的に安定してまかなうことを考えたら、生産性・効率性を考慮しなければならない。例えば、食料採取が可能な時期に可能な場所に行き、それに適した人材がそれ以外の人の分までかき集める。けれども、採れない時期のことも考慮して、食料を腐らせずに保存するには、適切な加工技術が必要になってくるだろう。そして、直接採取しない人のところ確実に輸送する技術も。過不足なく分配するための運用面のプロセスも必要になるだろうね。 つまり、人口を考慮に入れると、第二次産業的な行為までもが生命維持のための必要十分条件となる訳だ。 ここでも、小説なんか読まなくてもOK だし、スポーツ観戦なんてなくても全然平気ってことには変わりないと言える。
ここに出た生産性・効率性というポイントに目を向けてみよう。 これらを向上させようとする時に手っ取り早いのは、やはり作業を集約することだと思う。つまり、役割分担をして、AさんBさんが担当する作業を適性や全体の必要性に応じて振り分ける訳だ。 A さんは、αという作業に専念し、B さんは、βという作業に専念する。αもやったり、βもやったりというオーバーヘッドを減らすことを目論むわけ。 でも、我々が勤めている会社とかでもそうだと思うけど、役割分担ってすると、必ずそこに従事している人間の心に不公平感を生むんだよね。A さんはこんなことを言うわけだ、 「俺はαが上手いけどBは下手。Bはβしかできないくせにエバッてる。αの方がβより難しいのに」 って。 αとβの持つ価値を、まんま比較して評価することは出来ないので、それらの価値を投影する共通の物差しが必要になるわけで、それが貨幣なんだと思う。そして、外的要因に応じてそれらの定量的な額を均衡状態にするまで微調整する役割を担うのが、市場や相場、もっと言えば金融業なわけだよね、元々は(サブプライムローンの抵当権を、細分化して商品化して、実体とかけ離れたところで売り飛ばすなんて”スマートな”ことを昔の人は考え付かなかったはず)、きっと。 こんなことをつらつらと考えていくと、人のやりとりを円滑にしようとすると第三次産業に類する仕組みや業種の必要性というのが見えてくる。 そーれーでーもー、生きるためにはモナリザに微笑んでもらう必要性なんて無いし、イチローが何本ヒットを打とうと関係ない。増して張本とどっちが偉大なのか?なんてことは特にね(笑)
ここまで当たり前のことを再確認する意味を込めて、しつこくしつこく書いてきたけれども、人間が生命を維持するためだけに活動する、あるいはその効率性を上げるためだけに活動するというのだとすると、娯楽の類、娯楽のための産業というのは必要ないということになりますね。
でも、実際にはれっきとした産業として存在している。 産業として成立しうるということは、確固とした需要がそこにあるからなわけですよね。
何か不思議。当たり前といえば当たり前。でも、不思議。 当たり前で不思議なことを、強引な前提条件を付けてゆるーく考えてみました。
消費者のどんな心理による需要なのかは、またの機会に考えることとします。
Tags: クラーク, サービス業, 娯楽, 産業, 産業区分, 貨幣, 需要
弊社の株価が31ドル台までおちこんでます。 1ドルが約93円の超円高。 1株当たり2,900円という見当になる。
ちょうど3ヶ月前の7月28日時点では、 株価は43ドル台で、1ドルが約108円だったので、1株当たり4,600円だったわけだ。
価値が3分の2以下になってます。
果たして、ドルはモドルのか? (はい、単にこのダジャレが言いたかっただけです。)
Tags: ドル, 下落, 円高, 株価
用意するもの:
手順:
うまくすれば100年後ぐらいに見つけることができるでしょう。
注意点:
Tags: 反重力物質
2つの外資系企業の日本法人元重役が、勤務していた自社株のストックオプション行使により得た利益を不正に隠蔽し、脱税行為をはたらいたとして書類送検される事件がありましたね。
この事件、あくまでも私見の域を出ないのだが、検挙に凄く恣意的な何かを感じた。 こう感じたのは俺様だけだろうか? 根底に悪意を持つ何かが、ある種の吊るし上げを働いたように感じてならない。
そのように感じた最大の理由は、この全く異なる2つの企業にまつわる事件が、同時に明るみに出たことだ。 これって単なる偶然なのだろうか?
それから、これはあくまでも”申告漏れ”ではなくて、ホントに”脱税”と扱うべき悪質なモノだったのだろうか?
その作為性を感じた理由はまだある。それはこの事件が政権交代直後に明るみに出たことだ。 つまり、政権交代により政策方針転換がなされ、 市場万能主義 (貧富の格差は長期的視野に立てば問題なし) → 政府の積極的な景気刺激介入策が早急に必要 と大きく舵が切られた直後であったことだ。 「世の中には”金持ち”がいても良いんだ。それ自体が問題なのではない。」 という前政権までの根底にあった考え方が大きく否定され始めたこの時期に、何だか金持ちをつるし上げるような報道がなされたなぁ、というのがあわわっちの個人的な率直な感想である。
誤解の無いように申し上げておくと、何も書類送検された2人の人間の肩を持つ訳ではない。 その2人に特に好意は抱いてはいない。どちらかというと様々な事情により嫌悪感さえ抱いている。
ただ、国税局だって政府機関なので、そういった政治の風向きに戦略が左右されたとしても、決して不思議じゃないよなぁと思い至った次第である。
小泉政権による構造改革のお陰で地方はボロボロである、という話を良く聞く。 非常に抽象的な表現、描写であるが、実際にその通りだと思う。 リーダ(妻)の実家がある新潟に行くと、”地方”の実例を目の当たりにして、実感を伴ってそれを感じる。
ただ一つ俺様が言いたいのは、 ・「中央と地方の税制、権限の委譲のバランスをどう取るか?地方をどう再生させるか?」 という地理上の水平方向の物差しに関する議論と、 ・「金持ちと庶民の富の分配のバランスをどう取るか?」 という階層社会における垂直方向の物差しに関する議論を ごちゃ混ぜにして議論してはいけないんじゃないか?ということだ。 2つは異質の問題だ、というのが俺様の見解。
俺様の超素人目には、何か論旨をすり替えているように見える。 地方を短期的、長期的にどう救済していくか?という議論と、社会にどう活気をもたらすべきか?というのは別個の議論ではないのだろうか?決して混ぜてはいけない。
あわわっちは、シンプルに申して、金持ちになりたい。 主体的に強い意志をもって戦略を立案し、それを具現化することに労を厭わず、それが社会に対して何がしかの貢献をし、それらの対価としてより多くの金銭を得られたら良いなと思う。そして、そのお金を使って4人の子供達になるべく良質な教育を受けさせたい。経済的な制約によって、彼らが受けたいと望んだ教育を受けさせてやれないという事態だけは、親として何としても避けたい。
地方が都心と比較して被るデメリットは、今すぐ解消する施策をとるべきだ。 ただし、この意思決定は、豊かになりたいというモティベーションをイタズラに排除して、社会から活力を奪っても良いということとは同義ではない。例えその豊かさの具体例が、金銭的な豊かさを意味しているとしてもだ。
麻生さんには何も期待しないが、プロテスタントの出現以降社会で容認されてきた、一生懸命働く対価としての報酬を得ることは決して卑しいことではない、むしろそこを1つのモティベーションとして創意工夫をしていこうぜ!という考え方と、地方からも活力を生み出すような活動とが、両立できないはずがないと思う。
Tags: ストックオプション, 中央, 地方, 政権交代, 活力, 脱税
音の逆位相と言えば、あわわっちはBOSE Quietcomfort Ⅱを愛用している。 かれこれ、2年ぐらい使っているだろうか。
それ以前からずーと欲しかった(垂涎状態とはまさにこのことかな?)のだが、高すぎて手が出なかった。 飛行機に乗ると、あの”ゴーーーーーーーーーっ”って騒音でいつも凄くストレスを感じる。 それが軽減される(実際のところ、殆どなくなる)っていうんだから、凄いよなーと思っていた。
その年、仕事でマイアミに出張することになり、行きかえりのフライトは全て一人ぼっちだったので、米国東海岸までの時間(苦行!)を考えると身震いしたので思い切って購入した。
ここまで読まれて、よく分からないという方のために説明させていただくと、BOSE Quietcomfort というヘッドフォンのシリーズがあります。BOSE博士率いるBOSE社が開発・販売しているヘッドフォン。 あわわっちのはⅡなので、シリーズの2作目です。 こんな感じ。
Quietcomfort装着イメージ(モデル:アンドレア4歳
現在はⅢっていう3作目が出ていて、もう少し耳にくっつく部分がコンパクトになっているはず。 この耳にくっつく部分に、単4乾電池を1本入れるのだが、スウィッチを入れると、ヘッドフォン外部の雑音の逆位相音を瞬時に計算し、ヘッドフォン内部にその音を流し込みます(iPod とかに接続せずとも、ヘッドフォン単体でも動作するってこと)。ヘッドフォンを装着している人には、正位相の音と逆位相の音がいっしょくたになって聞こえるので、結果として雑音が一切消えるという快適な音場が提供される訳です。
この効果は、 1. 雑音が相当量軽減される (あわわっちの初期購入動機ですね)。 2. 雑音がガサっと切り捨てられるので、本来再生されている音楽等が物凄くクリアに聞こえる (もともとBOSE ですから、音自体がそもそもメチャクチャ良いです)。 3. 雑音が軽減されるので、ヘッドフォンを装着してスウィッチをONにするだけで、物事に集中しやすくなります。 4. 音がクリアになるので、再生音量を絞ることができます(小さな音でも相当クリアに聞こえます)。 耳にも優しく難聴防止になるし、周囲への音漏れも予防できます。 5. 冬は耳がとっても暖かい!!(夏は暑い…)
実際、あわわっちは第五世代iPod(いわゆるビデオiPod)を愛用してますが、このQuietcomfort と併用すると、iPodってこんなに音が良かったんだーとビックリしましたし(それまでオマケの白いイヤフォン使ってたからねぇ)、凄く小さな音量による再生で、山手線の中で十分クラシックが聴けます。
もうひとつBOSEってすげーなーと思ったことがあって、それはアフターサポートです。 愛用のQuietcomfort が、どういうわけか一度壊れてしまって、左側から音が出なくなってしまった。 購入した秋葉原の直営店に持って行ったら、とりあえずお預かりします、という運びになった。
しばらくしたら、新品が自宅に丁寧に梱包されて送られてきた。 つまり、修理や部品交換ではなくて、付属品以外の本体が新品に交換されて送られてきた。
再びこうして送られてきた
これは顧客満足度が高いですよね。 製品保証期間の延長はありませんが、ハードウェアとしての耐用年数は実質伸びるでしょうし、故障箇所のみの修理により、今度は別のところが壊れたらまた同じ手続きかよ!って気分にならないし、そもそも綺麗なので気分が良いですね。 BOSE側としても、交換に応じるに値するか?という判断を早急に行い、後は発送手続きのプロセスに入れば良いだけなので、急いで修理してとかというプロセスをカットする(あるいは、後回しにする)ことが出来てコストカットに繋がりますよね。
BOSEというブランド力と安定大量生産体制に裏打ちされた高付加価値販売モデル(=粗利益が高い)でしか実現できない芸当なのかもしれませんが、それだけにBOSEのその懐の深さに驚きました。
<A HREF=”http://ws.amazon.co.jp/widgets/q?ServiceVersion=20070822&MarketPlace=JP&ID=V20070822%2FJP%2Fhokoki-22%2F8001%2Fc062ee8c-17af-4ba6-86c7-86db74435e34&Operation=NoScript” mce_HREF=”http://ws.amazon.co.jp/widgets/q?ServiceVersion=20070822&MarketPlace=JP&ID=V20070822%2FJP%2Fhokoki-22%2F8001%2Fc062ee8c-17af-4ba6-86c7-86db74435e34&Operation=NoScript”>Amazon.co.jp ウィジェット</A>
Tags: BOSE, iPod, Quietcomfort, ブランド力, ヘッドホン, 逆位相, 雑音, 騒音
本日10月1日は、「都民の日」ですね。 都内の公立の学校はお休みですね。 あわわっちは、都立の高校に通っていたので、高校生まで10月1日は毎年お休みでした。 (大学のときは、私大に通っていたのでお休みではなく、その代わり創立者の誕生日がお休みでしたね。)
今は外資系企業にお勤めなので、もちろん会社は休みじゃないですね。今日も出勤してます(今昼休み)。 本社のあるカリフォルニア州パロアルトの記念日とかにお休みにしてくれねーかな?そんな日ないのかな?
長男アラン(小1)は、台東区立の小学校に通っているので学校はお休みです。三姉妹は保育園児なので通常通り。 アランは今日は朝から学童クラブに行かせるという選択肢もありましたが、俺様の甥っ子達(ユー:中2とタイ:小4)もお休みだってことで、実家に遊びに行かせることにして、今朝実家の最寄り駅まで通勤途中に連れていき、迎えに来てくれたユーとタイに改札口で引き渡してきました。
あわわっち一家は、一時期実家で両親と同居してた頃があり、当時はアランは2、3歳ぐらいでしたが、従兄弟の2人と丸2年間同居していたので、一般的な従兄弟同志よりもかなり仲が良いんじゃないかな? 改札まで迎えに来てた2人の表情も、アランの表情もとっても嬉しそうでしたね。 仲良きことは美しき哉。 見ているこっちも嬉しい。
一方で、都民の日は”赤い羽根募金”の日でもありますね。 あわわっちも今朝JRの市ヶ谷駅で募金させてもらいました。 そして、例の赤い羽根を貰いました。
赤い羽根
この手の募金活動が、どのぐらい効率良く世の中のためになっているか?なんてことを考え始めちゃうと悲しくなるかもしれないので、脇においておいて、休日をボランティアをすることで過ごすという決断をし、駅で大きな声で協力を呼びかけている子供達、偉いぞーーと心の中で思いつつ、赤い羽根を受け取りました。
身内の子供達、そしてボランティアの子供達のお陰で、今日はちょっぴり良い気分
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