コロッケ氏に見る感性の流石!
先日NHK の「課外授業 – ようこそ先輩」を観ていたら、モノマネタレントのコロッケ氏がその日の課外授業の先生でした。
まず、この番組ご存知です? 知らない方のために簡単に説明すると、30分ぐらいの番組なんですが、毎回フィーチャーされる有名人がいます。 タレントさんだったりアスリートだったり、とにかく著名人です(直近で私が観た回はコロッケさんでした)。 その方が特別講師になって、自身の母校の小学校(コロッケ先生の場合は、熊本かな?)で、1学級(大体5,6年生ですかね)に対して課外授業をします。 俺様の知る限りパターンとしては、児童に課題を提示して、場合によっては宿題として家庭で取り組んだりするので、2日ぐらいに分けて収録してるんですかねぇ。まあそんな感じです。
で、コロッケの回は、「みんなでモノマネをする」っていうのがテーマでした(笑) これだけ聞くと、何かコロッケ先生が子供達にモノマネのテクニックを伝授して、新しい気付きがありました、メデタシ、メデタシってな感じになりそうな気がするじゃないですか? 全然違うんですよ、感心しました。 正直これまで”コロッケ”という方を誤解していたようです。
コロッケというモノマネタレントとしての才能(この文章の文脈で言うと感性)が、一流だっていうことは、あまりテレビを観ない俺様でも知っていました。でも、この番組を通して知ったのは、指導者の資質っていうんですかね、もっとハッキリ言っちゃうと、子供たちの感性の開き方が素晴らしいんです。 目から鱗が落ちました。 コロッケさん、あんた凄いよ!
どういうことかと言うと、 俺様の理解では、以下の3つのアプローチで、”モノマネ”という物に対する人の(この場合は児童の)固定観念を取り払い、感性を開いていくようにしていました。 1. 実はモノマネは似てなくても良い(笑)と断言する 2. モノマネをデフォルメするに当たって、動物を触媒にする 3. モノマネとは、ピン芸ではなくて、集団による総合演出ですと定義する
それぞれ説明すると、 1. 実はモノマネは似てなくても良い(笑)と断言する 最初に宣言してました、ぶっちゃけモノマネは似てなくて良いと(笑) 観る人を楽しませることが第一義だ、と。
ここで子供達は、何だそうなのか!と思うわけですよ。 「モノマネは似ててナンボ」という固定観念を取り払い、子供たちの中でもモノマネに関しても得手・不得手はきっとある筈で、得意な奴が面白おかしくモノマネするのをプロに診てもらうって場になるんじゃないか!みたいな暗黙の場の空気を吹き飛ばす訳ですよ。 この大胆な宣言により、満場がグッと引き付けられるわけです。 「ん?何?俺にも/私にもチャンスはある?」 と。
そこでドクトリンって言ったら良いかな、注意が入ります。 モノマネ対象を愚弄するような描写、演出は駄目よと言います。 「真似させてもらうんだ」という対象への感謝の気持ち、その人のことが大好きで、好きで好きでマンジリと観察して特徴をピックアップして取り入れるという基盤を作ります。 そして、その結果モノマネを観る人を楽しませんるんだ!というマインドセットを醸成します。
ここで児童を4人ずつのグループに分けます。 モノマネは、この4人のグループ単位で製作することになります。 実は既述の斉藤教授もおっしゃっていることなんだけど、感性を開くためには少人数のグループに分けてディスカッションをするってことは、(特に日本人の場合)非常に有効なんだそうです。
理由は至って簡単で、大勢の前で話すのと比較して、グループ内なら自分の意見を言いやすいでしょ! こんなこと言ったらバカだと思われるかもっていうハードルを低くして、自由な発想で色んな意見が出やすい雰囲気を作る効果、出た意見に触発されて新しいアイデアが誘発される効果、こうして意見を表明する人を増やすことで当事者意識を持つ人を増やす効果があるんだそうです。なるほど。 知ってか知らずかコロッケ先生はそれを実践した訳です。
グループ内で相談し、モノマネする対象をチョイスします。 北島三郎、美川憲一、美空ひばりの3人だったかな、候補は。 4人で相談して誰にするかを決め、番組から提供された参照ビデオを繰り返し観ます。 動きの特徴を観察するんです。
手の動きや顔の向き、表情、動きの大きさや速さ、動くタイミング、体の部位間の連携はどうだとか?を4人で色々話し合いながら観察してメモを取っていきます。 対象に興味を持つようにして、とにかくつぶさに見ていきます。 VTR の編集効果かもしれませんが、番組を観ていた俺様も「へぇー、なるほどねぇ」って思っちゃうような特徴の捉え方を子供達はしてました、”北島三郎は、顔と手が同時に方向転換するんだねぇ” とかね。
2. モノマネをデフォルメするに当たって、動物を触媒にする つかんだ特徴を自分たちの中で咀嚼するにあたって、 「どんな動物のどんな動きに似てるか?」 と、動物を触媒にして特徴をデフォルメします。
対象の表情や動きの特徴をグループでリストアップ出来たら、皆で動物園に行きます。 モノマネはショーなので、特徴を再現する際には、ある程度デフォルメする必要があるわけだけど、そこでその方向性を定めるにあたって感性を開く触媒として動物が登場します。
メモした特徴が、実はどれかの動物の何かの動きに似てないかを探すわけです。 見つかったら、今度は動物のその特徴をよーーーく観察します。納得が行ったら、その”動物の”動きを大胆にモノマネに取り入れます。 こうして 人間の特徴の模倣(モノマネ) → 動物の特徴の模倣(モノマネ) という一つのパラダイムシフトが敢行されることになります!! 美川憲一のツンっとした表情が、あっというまにラクダのとぼけた顔の動きになったりする訳です(笑)
えっ!って思うでしょ? じゃー、それって美川憲一のモノマネじゃなくて、ラクダのモノマネじゃん!と。 良いんです、これで。 だってモノマネは似てなくて良いんだもん(笑)
子供達、動物園の檻の前で、動物たちの特徴を観察し、段々とイメージが出来上がってきているモノマネの動きや表情に早速取り入れて、ちょっと仲間内で実演したりします。「こーかなぁ?」「いや、こーじゃない?」とかね。 もー、感性はバリバリ全開ですよ!
このアプローチって、コロッケ先生も実際にやってるそうで、五木ひろしのロボ・コップ・モノマネっていうのがあるんですってね。ちょっとその映像も流れましたが、ガシンガシン、ウィーンって効果音と共にロボっぽい動きをする五木ひろしのモノマネ。 本人そんな動きしてねーじゃん!っていう突っ込みを入れつつ、コケティッシュな動作に笑ってしまいました。
3. モノマネとは、ピン芸ではなくて、集団による総合演出ですと定義する 実際にモノマネをするのは4人のうちの1人。 でも、他の3人のヘルプがあって初めてショーが成立する。
いよいよ、完成した(感性した?)モノマネを披露する段となります。 父兄も観客に呼んでの発表会です。 でも実際にモノマネをするのは1人です。グループ内の他の3人は裏方に回ります。 でも、この3人も含めてモノマネ・ショーなんだということをコロッケ先生は言います。
初めから、モノマネを”似ているべき対象者(本人)の模倣”と位置づけず、観ている人を楽しませるショーとして練ってきたわけですから、そこに主張の一貫性があります。 コロッケ先生のインタビューでも、普段の自身のショー活動での裏方さんへの感謝の言葉が、実際のショーの映像と共に述べられます。
発表会では、話し合いでモノマネする子を決めて、その他は1人が前振りをする司会者役になったり、2人が紙ふぶきを飛ばす黒子になったり、バックダンサーになったりしていました。 実際のところ小学生ですから、ブラウン管を通して観たその発表内容自体は、そんなに面白くないんですけど、プロセスが大事というか、皆とっても楽しそうでしたね。
コロッケ先生の手法。 モノマネという小学生でも知っているありふれたテーマを題材にして、誰でも知っているが故に固定観念にとらわれそうなところを、適切な触媒を用いて感性を開かせていくという、有能な指導者でもそうそう思いつかないであろうリーダシップに感心しました。 授業を受けた子供達も導かれて感性を開かれながら、どう重要ポイントに目を向けて物事を作り上げていくかという、素晴らしい実体験になったんじゃないかなと思います。
(次回へと続く)
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感性とは?
では、ここで言う「感性」とは一体何だろうか? 例えるなら、心の目の開き具合、意識の目覚め具合とでも言ったら良いかな。
かっこ良く言えば、感性とは、見据えた視野の広さであり、着想の飛翔の高さであり、モティベーションの強さであり、創造性といった定義になるかな。 「感性が開いた」状態で人は仕事をすると、より鳥瞰的な視座から物事を捉え、自ずと広い視野で物事に目が行き届き、いつもより自由な発想のアイデアが生まれ、先入観に囚われない創造的な仕事ができるということでしょうか。 こういう心の状態を如何に導き出せるか?が、指導的立場の人の手腕に掛かっているわけだ。
俺様は子供の頃、読書感想文というのを書くのが大嫌いでした。 (好きだったという人は、むしろマイノリティーだと思うけど)とにかく大の苦手で、いつも書くのが本当に苦痛でした。 小学校の3、4年生の時、担任の先生が専門は国語の先生だったんだけど、これがヒドイ先生でねぇ、まず最初にくる彼に対する描写は、「アル中」です。 比喩じゃなくて、ホントに慢性アルコール中毒だったんです。 息は酒臭いし、手は震えてるし、教室でタバコを吸うし、自習させて居眠りするし、すぐ殴るしで、今だったらPTA・教育委員会で大問題になってますね。(どういう訳か俺様自身はその先生のことを嫌いにならなかったんだけど)すげーメチャクチャ仲良かったクラスメートの1人なんて、お父さんも酒乱の傾向があったために、その先生に自分の父親の嫌な一面が重なっちゃって、学校でも家でも気持ちの逃げ場がなくなっちゃって登校拒否になっちゃったぐらいですからね。
ある時その担任の先生に、クラスみんなの前で、俺様は自分の書いた読書感想文を手渡され、立って大きな声で読み上げろと言われたことがあった。当然言われた通りに読み上げました。読まないと殴られるしね(泣) 読み終わったら、その先生に酷評されました。お前の読書感想文はヒドイと。 あらすじをチョコっと書いては、良いと思うとか悪いと思うとか、面白いと思うとか、悲しいと思うとか、その繰り返しで中身が無いって言われました。悪い例としてクラスに提示されたわけです。
今思えば確かに中身が無いんですが(笑)、読書感想文ってこういう物だと思い込んでたんですよね、俺様。自分が何か感じた部分を本文から抜き出して、そこにコメントを書く、それを繰り返して指定された文字数を使い切るまで書き切るものだと思ってました。「感性」が開いてなかったんです。逆恨みするわけじゃないけど、その国語の先生も感性を開かせてくれなかったし。
今なんか、上手かどうか、洗練されているかどうかは全く無視して、嬉々として書いちゃいますね。 感想パート3、連想して思い至った事柄7ぐらいの割合で色々書いちゃうよね。「感性」が開いてるから(笑) とにかく色々と思い至ったら、ってゆーかすぐ思い至るし。本文から脱線しようとしまいが色々ゴニョゴニョと考えて、それをなるべく整理して書きなぐってみる、コリコリ、フムフムって感じで。
大人になって、読んだ本の本文から発せられた光が反射する心の鏡、つまり本文の内容から連想する自身の経験が子供と比較して遥かに多いからなせる業と言ってしまえば、それまでかも知れないが、小学生だってそれなりに生活、経験しているわけだから、枷を外すような指導、つまり、本文の内容は導火線としてそこそこ触れれば良くて、別にそこから大きく逸脱しても良いから、自身の経験とちょっと似てるとか、自分が実際に取ってる行動とは違うとか、だったら今度はこの本を読み終わった新しい自分はどうしたい?とか、どう自分を組み立てて行きたいか?とか、もっともっと自身のことに感性を向けさせてくれて、そういった発想を出しやすくするヒントをくれて、あとは遠慮なく書けば良いんだと安心させてくれれば、もっと読書感想文を書くのが好きだったかもしれませんね。
残念ながらこの先生からは、読書感想文についてそういった形態の指導は受けられなかったという認識です。 酒でも飲めってことだったのかな?(笑)
子供の頃の読書感想文の話はこれぐらいにしておいて、今の自分の実生活においてはどうすべきか?って課題がありますね。 これはもう、周囲からの情報とか刺激をキャッチする心のアンテナを高く大きくして、何か感じるところがある物をひたすら耳に入れる自助努力をすべきって話に尽きるんですかね。
本繋がりでちょっと書くと… 先日会社で本に関して面白い話が聞けました。 数ヶ月前にウチの部署に異動してきた後輩(通称:チカラコブ君)と雑談してて分かったんだけど、このチカラコブ君ったら意外や意外読書家だということが判明した。しかも多読家で、結構本を割かし速読的にバンバン読んじゃうんだって。 まあ、この”意外”っていう評価も、別の後輩(スリーツリー君)の 「あわわっちさん、あのチカラコブさんは脳ミソまで筋肉で出来てます。へっへっへ」 っていう風評に惑わされてただけなんですけどね(情報をミスアンダースタンドした悪い例ですね・笑)。
で、このチカラコブ君は、本の読み方、本をどう読むべきか的指南をしてくれる本も何冊か読んでるそうで、彼が言うところのそれらによると、”ビジネス書的な指南本は小説ではない”って割り切りが大事なんだそうです。 この投稿の内容に準えて言うならば、小説を読む時の感性は敢えて封印し、ビジネス書用の感性を開くべしってことですね。
すなわち、指南書は小説を読むように書かれている文章を一つ一つ胸に吸い込むようにして、その世界観に浸っていてはいけないんだそうだ。とにかくひたすら斜め読みをして、なるべく一気に、例えば30分間とかで、本1冊に”目を通して”、どこに何が書かれているかのIndex(目次)を頭の中に作れば初見は完了とのこと。
後は生活、仕事をしていく上でその記憶とヒットするようなことがあった際に、どの本のどの箇所にどんな事が書かれていたかを示す頭の中のその Index を頼りに、その本を引っ張り出してきて、該当する箇所だけをじっくりと読み返せば良いのだそうだ。 「どうせ、元々じっくり読んでも何も覚えてないでしょ?」 とチカラコブ君は主張する。
俺様自身がこれを実践するかどうかは別途考えるとして、なるほどねぇ、と感心してしまった。
これまでその手の本はじっくり考察しながら読むもの、字面を追う時間と頭の中で色々と考えをめぐらす時間とを半々ぐらいで読むものだと思い込んでだから。 それから俺様は、良く世の中で言う”速読”ってやつは、本1冊を数分ぐらいで読んじゃう読み方を指し、一瞬で本の各ページを隅々まで余すことなく絵として脳裏に焼き付ける極めて特殊な技能だと思っていたんだけど、そこまでじゃないにしても、30分とかで目を通すって中間的速読って領域が存在することも初めて知りました。
つまり、この事実が示唆する大きな意義は、特別な訓練を積まなくても母国語で書かれている本に対してなら、大抵の人がこの中間速読は実践可能ってことですよね。そして、この手法を用いれば、確かに限られた時間の中で読破(=目を通す)できる本の数は爆発的に増えますね。
ある領域に関するある特定の情報が持つ価値を高めるには、その周辺事情の把握の網羅性を高めるのが一番だという考え方に則れば、確かにある分野に関する本を端から多読した方が、1冊の本を深読みするより持っている情報は洗練されるよなぁと思いました。
つまり俺様なりに説明を試みると、例えば限られた時間内で美味いミソラーメンを食べに行きたいという人のリクエストに応えなきゃいけないシチュエーションで、あなたが選択したラーメン屋のその選択の妥当性を納得させるためには、そのミソラーメンの麺やスープや具の美味さをこと細かく説明する(=1冊の本を深堀りして情報を得る)より、 「この辺のラーメン屋のミソラーメンは一通り食べた(=その分野の本の数々にざっと一通り目を通す)けど、ここの店のが一番美味かったから、ここにしよう!」 と説明した方が納得感が得られますよね。 ビジネス書向け多読、あるいはビジネス書向け感性とはこういうことかもしれない。
とにかく、思わぬところから思ってもみなかった、とっても有益な情報が聞けました。 情報のソースしかり、情報内容の意外性しかり。 色んなところに宝は埋まってるもんだなぁと。 ちからこぶ君、ありがとう。
(次回へとつづく)
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